Archive for 2008年2月

週報48 2月24日 (No2519)

   今週の集会

24()10:15受難節第3主日礼拝 聖書 1テサロニケ51618節 立証『いつも喜んでいなさい』14:00分区・教会役員研修会 於尾道久保教会27()10:00 第一祈祷会 加藤常昭著「祈りへの道」 第2章 失望なき祈り

 

 次週の予定

3/2()10:15受難節第4主日礼拝 聖書  ヨハネ福音書1218説教『惜みない愛に応え』礼拝後 定期役員会 5()10:00 第一祈祷会加藤常昭著「祈りへの道」 第2章 失望なき祈り(続き)18:30 定期祈祷会(同 上)

 

報告と消息

 中光 弘牧師の闘病のため続いて御加祷下さい。 吉仲牧師夫妻は、22()29(金)、台湾国際アシュラム・研修ツアーに出掛けています。お祈り下さい。今月二週続いて礼拝に出席していたフィリピンの青年達7名は尾道市向島町研修センターに転居することになり、去17()礼拝後歓送の時を持ちました。感謝

 

                                                                                                                            教団信仰告白解説13

「三位一体について」

 イエスの神性が明確にされると、聖書に出てくる天地万物を創造された神との関係が当然問われることになる。二人の神が存在する筈はない。先のニケア会議で議論されたのもその問題であった。更に聖霊の存在も問われた。結論的にいうとイエスと神、聖霊と神は「一つの本質(同質)で、分割されず完全に一つの神であるとした。そして神は父・子・聖霊という三つの位格を持つとした。この「位格」という言葉はペルソナと呼ぶ神学用語で人格(パーソン)と異なる。そこで「三位一体」の神と告白する。

 これはマタイ福音書2819節に出て来る。その他にも礼拝の祝祷(厳密には祝福の宣言)として第2コリント1314節がある。神が自らを父・子・聖霊として啓示されるということを、神学者カール・バルトは「自己を啓示する神、啓示における神、啓示が現在的となる神」と言っている。

 北森嘉蔵という方は「罪の赦しの愛」という角度から三位一体論を説いている。『正義の神は罪に対してこれを厳しく裁く方であるが、その方が罪を赦して愛するという在り方は、同一の神が二つの性質を持つという構造になる。それを御父と御子の神として理解することが出来る。更にこの神と人の上に実現する罪の赦しが実際に継続していく在り方が聖霊なる神ということになる』

 この罪を赦す愛と、罪を清めていく聖霊の働きがバラバラに分裂しないところに、一人の神のご存在となるというのである。(続く) 

 

 

 

 

 

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週報47 2月17日 (No2518)

 

今週の集会

17() 10:15受難節第2主日『家族礼拝』聖書ヨハネ335節 説教『新しく生まれる』18()10:00於教団広島教会 西中国神学研究会公開講座 講師 大住雄一師 主題「聖餐問題を巡って」20()10:00 第一祈祷会

 加藤常昭著「祈りへの道」第1章 祈りを待つ神(3)18:30 定期祈祷会[加藤常昭著「祈りへの道」]

 

次週の予定

24()10:15受難節第3主日礼拝«聖書  1テサロニケ51618«立証『いつも喜んでいなさい』27()10:00 第一祈祷会 加藤常昭著「祈りへの道」第2章 祈りを待つ神(続き)

報告と消息

10()礼拝後第2回臨時教会総会を開催し、議題「境内地購入に関する件」(別紙資料)を上程、賛成多数で承認可決しました。出席者8(議長含まず)。感謝、続いてお祈り下さい。中光 弘牧師は去12()遺漏の手術をしました。御加祷下さい。吉仲牧師夫妻は、22()29(金)、台湾国際アシュラム・研修ツアーに出掛けます。お祈り下さい。次週礼拝奨励は前田保成兄です。

 

教団信仰告白解説12

イエス・キリストの啓示

 これまで聖書についてであったが、新しい段落としてイエスと神についての告白である。 先に「聖書はイエスを証する」とあったが、イエスはどのような方なのかが問われる。それは人の側から探求して得られる答えではなく「啓示」によるという。啓示とは、隠されていたものが明るみになるという意味で、キリスト教は啓示宗教である。イエスは歴史的人物であるが、同時にキリスト(メシア)であると認めることである。言い換えれば人であり、神であるということになる。歴史上の実在した人物と認めるだけでは正しいイエス理解にならない。キリスト教派にはこの類の立場の人々は二千年の歴史に多く登場している(現代の聖書学者にもいる)。紀元4世紀初め開催されたニケア会議では、これが厳しく問われイエスは神と同類か同質かで二つに分かれた。その後二百年近く議論が続き、同質であるとの結論に至った。礼拝で唱える「使徒信条」は「ニケア信条」とも呼ばれるものである。「ものみの塔」(文書伝道協会=20世紀初頭創設された団体)はイエスの神性を否定する。イエスの神性はローマ95節、コリント521節、ヘブライ13節その他随所に証されている。

 

 

週報46 2月10日(No2517)

今週の集会

10()10:15受難節第1主日礼拝聖書 マタイ4111説教誘惑に勝つには礼拝後 第2回臨時教会総会 議案 教会境内地購入の件

総会議長吉仲 將11()14:00於福山市民参画センター 信教の自由を考える市民のつどい主題「憲法と信教の自由」13()10:00 第一祈祷会 加藤常昭著「祈りへの道」第1章祈りを待つ神18:30 定期祈祷会[加藤恒昭著「祈りへの道」]

 

次週の予定

17() 10:15受難節第1主日2月「家族礼拝」聖書  ヨハネ335 説教『新しく生まれる』20()10:00第一祈祷会 加藤常昭著「祈りへの道」 第1章 祈りを待つ神(続き)18:30 定期祈祷会[加藤恒昭著「祈りへの道」]

  報告と消息

                4()教区主催「部落解放現地研修ツアー第1日尾道人権文化センターで開催され、当教会から5名参加。有意義な学びが出来て感謝でした。1月から聖歌(統合版)を礼拝で使用しています。この為演奏用のDVDとプレーヤを購入することになりました。5()広島東分区教師会で総会(3/16)に向けて‘08年度行事計画案を検討しました。土屋圭示兄(福山ギデオン協会員)が「ピカドンの恐ろしさを体験して」(絵本)を出版しました。希望者申し込みください(見本があります)

 

教団信仰告白解説11

「信仰と生活との規範」

聖書が私たちの「信仰と生活との誤りなき規範」であるということを明らかにするのである。ここで問われるのは「信仰と生活」の「~と~」という表現である。信仰だけではなく、信仰が生活と結ばれていることである。生活に結ばれない信仰は、まず観念的なものに陥る。生活と関わらない現実離れして、熱心を装っているが無力である。また信仰は信仰、生活は生活と二分して考えることになる。さらに現実から身を引いて神秘的の信仰に陥ることになる。

聖書は信仰と、生活の双方に光を当て、誤りのない「規範」(お手本)になる。ジョン・ウエスレーは優れた学者であり教会の指導者であり、社会的実践を示した方ですが、「一書の人」と呼ばれた。松江と出雲周辺に宣教の足跡を残されたバックストンも大型聖書を二冊いつも持参し、その一冊は様々な「書き込み」をした方で、聖書を愛読された。 (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

週報45 2月3日 (No2516)

今週の集会

3()10.15 降誕節第6主日礼拝聖書  ヨハネ6115説教五つのパン二匹の魚教会学校礼拝聖書 申命記76~8節礼拝後 教会建築の祈祷 定期役員会 4()14:00 部落解放現地研修於尾道人権文化センター▼5()14:00広島東分区教師会 於三原教会6()10:00 第一祈祷会◎雅歌8 静聴と祈祷18:30 定期祈祷会『神の父性』◎エフェソ31420D・Fキンロー「日々の霊想」より

次週の予定

10()9:30教会学校礼拝10:15受難節第1主日聖書  マタイ4111 説教『誘惑に勝つには』11()14:00 於福山市『信教の自由を守る集い』 13()10:00 第一祈祷会加藤常昭著「祈りへの道」第1章 祈りを待つ神18:30 定期祈祷会[加藤恒昭著「祈りへの道」]

報告と消息

27()礼拝後第8回建築委員会を開催し、新しい教会用地(370)購入に際して契約書に付帯事項を記入する事など話合いました。今週4()尾道人権文化センターで開催される教区主催部落解放現地研修ゼミにご参加ください。詳細は掲示板をご覧下さい。柳田緑映兄(西宮市)より献金と御便りがありました。感謝

教団信仰告白解説10

「全き知識を与える」

 聖書が正典=基準であることは、普遍性と絶対性を持つことを意味する。それは「神につき救いについて」である。絶対的の(つい)は相対的であるが、それは時代や場所、人の判断によって変化するかしないかの違いである。昔は真理だったが今は真理ではないとか、宇宙衛星で地球の素晴らしさを見て神の有無を説くことなどは、絶対性とは言えない。そこで聖書は神と救いについて絶対的な真理と知識を与えるという告白がなされる。それはこれまで述べたところで明らかである。神が全知全能で普遍的絶対的な方であることを示す聖書は、救いに関しても等しく全き知識を与えるという。それは古今東西の賢人の残した書物、例えば論語、コーラン、仏典、哲学書などはすべて相対的なものということである。(続く)