礼拝説教

 

        クリスマスメッセージ                                        暗夜のともしび      

                                                                  ヨハネ福音書1章1―14節アドベントになって毎日していることがあります。それは樅の木の電燭です。シンプルな光で松永教会らしい。その頂上に星が光っていますが、これはダビデの星といわれ、ユダヤの伝説で希望の到来を告げるという伝説から来て、イスラエル国旗になっています。

クリスマスのイメージに光とか星が何故出てくるのでしょう。それは暗闇を吹き払う出来事と通じるからでしょう。暗闇は、不安や怖れ、迷いや悪い心に陥るからです。英語ではライトと言いますがLが付くLight (光、明るい、軽い)と、Rが付くRight(右、正しい、真っ直ぐ)と二つあり、これは意味が違います。日本人は「光、明るい、軽い」と「右、正し、真直ぐ」」を正確に英語で発音することが難しいようです。

この聖書箇所に「光」が八回でてきますが、これは4節「人間を照らす光」であり5節「暗闇の中で輝いている光」で、8節「世に来てすべての人を照らす」まことの光」であると説いています。今一つ「わたし(ヨハネ)は光ではなく、光について証しする者」と附け加えています。

これは発光体とこの反射体で説明できます。太陽と地球がそれです。太陽も星、地球も惑星です。太陽(地球の130万倍)が発光体ですが、光が無ければ、暗黒で気温マイナス270になり、地球は一瞬にして死の世界になります。先日も押しピンを絨毯の上に落として見つけられませんでした。これがもし押しピンが光ってくれたら簡単に判ります。「発光魚」と呼ばれる魚がいますが、(マツカサウオ、ヒイラギ、ホタルジヤコ、裸イワシ、ヨコソエ、ムネエソ、カラスザメ)①所在を知る認識記号)、②進路を照らす照明、③餌食を誘い出す(誘導)、④敵を脅かし目を眩ませる威嚇と防御)。これらは光の特性を示しています。第一に「共同体・仲間に入ること、第二に「迷わない」、第三に「正しい判断をする」、第四は「暗闇の誘惑を撃退する」ことです。

ところが、この光の特性を持たないで人は平気で生活しているのです。それが5節『暗闇は光を理解しなかった』とあります。ロ語訳は「闇はこれに打ち勝たなかった」岩波訳では「闇はこの光を阻止できなかった」となっています。「追いつくまで追跡し、それから捕え、打ち負かす」と言う光の威力を理解しないので、光に打ち負かされてしまうという意味です。これは何という失敗、損失、敗北でしょう。「暗闇」は「混沌」の世界で誰が何をしてもかまわない無法社会のことです。交差点で信号無視をする。十秒、十五秒が待てないで交通事故になり、人命が失われる。今でも踏切り事故で死亡する人が後を断ちません。夜無灯火で自転車に乗っている人がいるには自分のことしか考えていないからです。これが光を持たない世界で危険極まりありません。

光を発見出来る謎は光自体が「発光体」となることです。それはヨハネ福音書812節「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と主イエスが告げられたことです。これと同じ意味の言葉が、この他に12章36節「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」、46節『わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た』にあります。 そしてマタイ福音書で「あなた方は世の光である」とあります。これは「世の光になれ」と命令しているのではありません。「わたしは輝いています」ではなく、『私も輝いています』です。

讃美歌の定番となっています「きよしこの夜」には「星は光り」の言葉は訳者由木 康さんが意訳したのです。Silent night, holy night! All is calm, all is bright. round yon virgin mother and childe.英語は「母と子の回りが輝いてい」のです。つまりスポットライトが当たっていたことです。

わたしはクリスマスにいつも思い出すのは玉木愛子さんの詩集「真夜の祈り」で、「目をささげ、手足をささげクリスマス」という句です。大阪商家に生まれ育ったのですが、七歳の時被癩し、少女時代にキリスト教系の熊本「回春院」に入院し、聖書を読み入信し以来次第に病気が重くなり発句の通りの状態に至ったのです。この句には目も手足も主に献げるという信頼し切っている心情が伺えます。不安や思いわずらい、恐れを持たない生き方です。心の内に、灯が伺えます。

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    ≪急いで降りて来なさい≫ ルカ福音書19章1…10節 

1    このエリコの町に住むザアカイは二節「徴税人の頭で金持ち」でした。それは職業と関連していたでしょう。徴税の時に「だまし取る」(八節)という噂が立てられていたことと関係していたかも知れません。エリコは、ユダヤでは国境の要所で、徴税所が古くからありました。ローマ直轄領でしたから、彼はローマ政府に雇われて働く徴税人だった訳です。ユダヤ人でありながら、ローマに雇わて働くザアカイにとっては、実際に通行税は不正出来ない筈ですが、金額を減らしてくれとか、割引してくれといっても譲らない、嫌われるのです。雇われ人として忠実な仕事する頭でしょう。例え金持ちであっても、幸せな日々ではなかったでしょう。自分で自分をユダヤ民族の枠の外に締め出しているので、メシヤは彼と何の関係もないのだと生活していたので、ユダヤ人から反感を買い罪人の間に数えられたのです。

2    協調性を欠く真面目な人、融通の利かない性格の人、小心で几帳面すぎるほど几帳面な人、与えられた仕事には熱心だが、その他のことは無関心である人、話合うことが苦手で黙って黙々と働く人、その反対に自分のことより周囲のことにいつも気を使って無責任になり易い人等々『ザアカイ型』人間に近いのではないかと、聖書から問い掛けられる事柄です。

3    エリコの町にイエスが来られることを聞き漏らしたのも、そこに原因があったからかも知れません。背の低いザアカイは遅れて来て人垣に阻まれ、イエスに会うことが出来ないので、四節「いちじく桑の樹に登った」訳です。そこには彼の求道の熱意が感じられます。

4    ここで注目したいのは、何故イエスが、初対面と思われる徴税人ザアカイを、樹の上に発見し、五節「急いで降りて来なさい。きょう、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼掛けたのでしょうか。エリコの町で彼の名が人々に知れ渡っていたと考えられます。然し主イエスは、周囲の批判の声にも拘らず、迷い出た一匹の羊を捜し出さずにおれない羊飼いの心境でした。この「泊りたい」は、「泊らねばならない」という強い断定的な表現が用いられます。この「泊まる」という行為は、相互に受け入れる関係を持つことであり、豊かな祝福の一原因となり、更に家庭の救いに至るのです。主イエスから「降りて来なさい」と言われてザアカイが直ちに応答し、主を家に迎え入れるという事に、彼の信仰告白があったのです。特にザアカイと主イエスとの位置関係は、神のなされる御業を象徴しています。これが逆の位置関係だったら簡単には主イエスの呼び掛けに答えられません。特にこのザアカイの家に招かれる出来事には、罪人と食事を共にしてはならないというユダヤ律法に違反する主の、律法を超えた愛の姿勢を見逃してはなりません。

5    ザアカイは、主イエスを迎え入れ、食事を共にし、親しく語り合うことによって新しい価値観を得たのです。それまでの価値観を一掃しました。そこで金銭の授受によって利益をえようとする価値観ではない生き方を、信仰によって証したのです。それは福音に生きる喜びです。福音はこの世の価値観を変えるのです。京都に「キリスト教共助会」という団体がありますが、その主張は「福音は非売品で、人格から人格に手渡されるもの」ということです福音が人格から人格に手渡される非売品という言葉は、ザアカイの場合に適切な事柄と思います。「泊まることにしている」という生活の共有の中で福音が伝達された事柄に注目したいのです。

6    そのことを八節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」という行為で表しました。更に「誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。律法では四倍の賠償というのは、意識的な強盗で破壊行為が歴然としている場合であり(出エジプト記二二章一節)、普通の盗みは二倍であり(二二章四―七節)、レビ記六章では自首した時は、元の額の、五分の一を加算するとなっていました(民数記五章六節参照)。彼は律法の要求以上のことをしようとしたのです。

7    これは悔い改めの具体的な証しであり、単なる罪滅ぼしの行為ではありませんでした。つまり善行という行為が救いを来らせるのではありません。恵みの信仰が善き行為を生むのであり、救いが善き業に先行しているのです。主キリストとの出会いの結果として、この善行が示されています。主は九節「きょう、救いがこの家に訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と言われました。これは、神がアブラハムにした約束が、彼の上にも実現したことを示します。アブラハムは一族の祝福の基になりましたが、ザアカイも全家の救いの出発点、その基礎となったに違いありません。

8    わたしが教会形成で最も必要であると感じて始めたアシュラム運動は一九七七年、神学校を卒業して二十年目、四三歳の時でした。前年のクリスマス礼拝祝会は五十名、子供クリスマス四五名でした。スタンレージョンズ博士が戦後の日本のキリスト教会復興のため全国で始めた運動ですが、山陰アシュラムを始めました。第一回は六二名参加。その主旨は「完全放棄」でした。主の言葉にすべてを空け渡す生活訓練です。スタンレー博士はパナマ運河の例を話された。ドック入りの原理です。そこで大型客船が水位の上下で大西洋と太平洋の水位の差二十六メートルを、八十キロ間、二四時間かけて、三つの水門でカバーすることである。

9    明け渡すということが如何に難しいかという例話を話して終わりたい。寂しい道で一人の旅人を強盗たちが襲い、旅人の持ち物すべてを奪いました。それから強盗たちは旅人を森の奥に連れて行き、森の暗闇の中で大木の枝にロープを結び、その端を掴まえるように命じた。そして旅人を暗闇の中に揺り動かしながら「お前は、断崖絶壁の縁の上に、ぶら下がっているのだ。お前が手を放せば、それで最後だ」と言って木の下に置き去りにしました。旅人は死の恐怖に震えながら、揺れるロープの端をしっかりと握っていましたが、力は少しずつ衰え、一瞬、一瞬死の時は確実となりました。そして硬く握っていた指はけいれんを起こし、ついに落ちたのです。ところが崖の下にではなく、わずか五十センチの固い地面の上でした。強盗たちが崖の縁だといったのは、逃亡時間を稼ぐための策略だったのです。しがみつくことでは、誰も自分の無力さから救われません。恐れと疑惑の絶壁の上を揺れ動いています。手離すのです。神の御腕の堅固な岩の上に明け渡すことが、神の計画です。自分の本当の無力さと、衰えていく力を認めて手離しなさい。ザアカイの入信は『しがみついている木から急いで降りて来た』ことから始まりました。この物語は私たちの心が何に支配されているか、改めて示します。2013/11.24礼拝説教

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《祈りはペンテコステに先立つ》  使徒言行録1章14節

先ず五月ホ誌特集号で、何故使徒言行録第一章十四節が巻頭聖句になっているかについてです。これは前後を見て判るようにある家の二階(アパルーム)に、使徒たちを中心に百二十人が「心を合わせて熱心に祈っていた」ことを取上げているのは明らかです。然しこれは熱心な祈祷会のモデルとしているのではありません。日本でこれ程の数で祈祷会が守られている教会は少ないでしょう。三人、五人、多くて三十人、祈祷会と称して聖書研究会で終わる処も多いでしょう。

ここで第一に取上げねばならないのは、この人達は復活の主から御父の約束をエルサレムから離れないで待つようにと命じられたからでした(四節)。ここに祈祷の姿勢が示されています。神の言葉に全身全霊を傾聴して待つことです。

第二は祈りによって何が与えられるのか。それは聖霊の力を受けることです(八節)。臆病で引込み思案で人前で本当の言葉が出ない、何を話したらよいかも判らない、話しても間違ったことをしゃべってしまう、そんな者に、聖霊が一人一人の耳と口(言葉)を新しく「聞いて、語る」事ができるようにして下さるのです。その約束を与えられてから十日間熱心な祈りの時を持ちました。そして五旬祭の日(ペンテコステ)、アパルームで約束が実現しました。

聖霊の力が一人一人の上に「激しい音が天から聞こえ、炎のような舌が現われ霊が語らせる言葉で話しだす」という出来事が二章一―四節に記されています。これが百二十人の集まっている処に起きました。聖霊によって彼らの耳と口が支配されたのです。これがペンテコステの出来事です。彼らは立ち上がって、周囲に集まっていた色々な国の人々に、大胆に恐れないで、聖書からイエスの十字架と復活を伝えたのです。

第三に示されるのは、標題の『祈りは常にペンテコステに先立つ』ことです。モラビアン派伝道者グリーンフィールド著「上よりの能力」に書いている言葉です。彼はペンテコステをリバイバルとして説きました。そして十八世紀のリバイバルの顕著な事実として現われていることは、祈りが常にペンテコステに先立つのだと書いています。

この歴史的なペンテコステとしてのリバイバルをホ群文書部が編集出版した『リバイバルと弾圧』からも知ることができます。一九一九年のリバイバルは淀橋教会の徹夜祈祷会から始まりました(三二P)。そして一九三〇年のリバイバルも同じで、五月三十日から六月八日ペンテコステの十日間東京市内各教会で毎夜祈祷会が開かれています(三五P)。刮目すべきことです。≪ホーリネスの群月刊誌2013年5月号『ホーリネス』投稿原稿≫

《イースターメッセージ》 新しく創造された者

第二コリント信徒への手紙5章17節

今年のイースター礼拝はわたし達の教会では特別な日です。永眠者記念礼拝に続いて、イースターに初めて納骨堂に出掛けるからです。わたしが以前永く牧会していました教会では、これが恒例でした。春の季節は色々な花が咲き、自然界が甦ったようになるからです。「春分の日」に近いこともその一つです。

このことで、特に拘っていることがあります。それは一般の人々が考えている単なる「墓参り」「慰霊祭」といって墓に向かって手を合わせる行事ではないということです。何故でしょうか。

復活について書いている季刊誌『礼拝と音楽』にこんな文章がありました。福音書を読みますと、十字架に処刑されたイエスの遺体を丘に掘られた新しい墓穴に葬れました。そして三日目の早朝マグダラのマリアをはじめ数人の女性たちが墓参りに出掛けたのです。彼女たちは、石の蓋を除いてイエスの遺体に香油をかけるのを思案していました。ところが墓に来てみると、十字架につけられたイエスはここにおられないと天使から告げられたのです。何ということでしょう!

しかしそれは全く思いがけない喜ばしい不在でした。マタイ福音書28章8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせに行ったとあります。

イエスの墓参りに裏切られたのです。これは墓に行く私たちに大切なことを教えています。『復活を信じない者にとって、墓は人生の終着駅であろう。しかし復活を信じる者にとって墓は通過点である。キリスト者には、その方のお骨はあるけれども、その方の霊はそこにない。その意味で私たちのお墓もイエスの墓と同じで、その不在を確認しに行くのであると』。

「通過点」ということでは、信徒の友四月号に、こんな記事がありました。広島で被爆した長谷川儀神父が反戦反核の活動をしていましたが、昨年九月に八一歳で召され、前田万葉広島司教が追悼の言葉を述べていました。

『さて、神父さまの生前を偲んで一番心に残るのは、「神のものは神に返しなさい(ルカ20章25節)といいますが、『この命は神さまからいただいたのだから神さまに返すのだな』と思い、うれしい日々です」と語られていたことです。中略 また、「逝去」の『逝』はマラソンでいう『折り返し』だと思っています」ともおっしゃっていました。つまり「死」は神さまとの完全な一致への希望そのものだというのです。長谷川神父さまはそうした言葉どおり、「神さまからいただいた命を神さまに返すため」、また、「この世への旅から折り返して神さまと完全に一致するために天国へ帰って行ったのです』。

通過点と折返し点とがここでつながっています。ここで明確に示されているのは、イエスと死と復活に、私たちが結び合わされていることです。わたしはヨハネ福音書15章5節「私は真のぶどうの樹、あなた方はその枝である」と言われた主イエスのお言葉です。そして「私につながっている」ことが絶対条件、つまり死と命が重なり合うこと、一体です。

ここで第二コリント5章14~15節を読みます。ぶどうの樹と枝の譬で「あなた方=枝」とありますが、ここでも「すべての人の為」となっています。それはイエスが死んで生きるのは、わたし達が死んで新しく生きるという告白です。最早「自分の為に生きる事を止めて、「キリストの心に生き」、「キリストが愛される人々のために生きる」生き方が始まります。

そして17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」新しく創造されたとは新しい存在になったということです。「新しく創造された」というのは、英語でニュークリエーションと言います。つまり新しい人となり、そこに新しいものが起きるのです。それは何か、18~20節に示されている「和解の為に奉仕する任務です。つまり神の平和を伝えるということです。平和の使者となることです。このニュークリエーションと似ているのはレクレーションです。「元気を取り戻す」という意味です。「娯楽、気晴らし」です。

14節「キリストの愛が駆り立てている」とあります。詳訳聖書では「キリストの愛が支配して、迫っています」となっています。これは「クリスチャン」の象徴です。クリスチャンとは使徒言行録11章21節にアンテオケ教会でつけられたあだ名・悪口でした。昼も夜もキリストと呼んで気が狂っているという意味です。これは正に、心にキリストの愛が駆り立てた状態をさしているように思います。隠れクリスチャンにならないで大いに現代のクリスチャンと呼ばれることを願うものです。

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『命の光を持つ』   ヨハネ福音書8章12節

ヨハネ福音書によれば、七章十節にあります仮庵祭が一週間祝われ、エルサレム神殿の境内では四基の燭台の火が明るく照らされていたと思われますが、主イエスは十二節「わたしは世の光である」と叫ばれたのです。燭台の灯火は直ぐに消えてしまいますが、わたしは消えることなく暗闇に輝く真の光であると証言されたのです。ヨハネ福音書では、既に一章五―九節に示されていました。九節(口語訳)「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」とあります。十二章四六節「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」十二章三六節「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」ともあります。これは旧約聖書・詩二七篇一節にもあります。光なる神の臨在は、暗闇を照らす。そこに秩序と平和を来たらせる。創世記一章一、二節によれば「光あれ」と告げられる時、混沌という闇が消え去ったのです。主イエスも「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と告げられました。混沌で象徴される暗闇は、無秩序であり、不義不正の働く世界です。闇取引という言葉があるように、隠れたところで妥協して、罪に支配されるのです。

この後に、二一節、二四節に三回「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とあります。その原因は「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」、そして「『わたしはある』と言うことを信じない」からです。つまり十二節「わたしに従う者」でないので罪に死ぬというのです。このところ「罪」は「的がはずれている」ことです。本来神に導かれて生きるべき人間が、その目標を見失って的はずれな生活をしていることです。それが罪です。狂える矢です。力を入れて引き絞ればしぼる程、間違った方向へと飛んで行くのです。自己充足的生き方です。光に背を向けて歩くなら、いつも自分の暗い影を踏んで行くことになります。悲観的、絶望的、虚無的、刹那的になります。罪の暗闇から解放されには、真の光なる主イエスのもとに信頼しきって身を置くことです。

「わたしは世の光である」をギリシャ語の順序で表わしますと「わたしはある」「世の光」です。そして最初の「わたしはある」はエゴー・エイミーと言いますが、これは「神の臨在」、つまり「御子イエスの神性」表現です。二四節、二八節、五八節に出てきます。「アブラハムが生れる前から『わたしはある』」との言葉にユダヤ人は驚き、不愉快で石で殺そうとしました。十八章六節では、イエスを捕えようとした役人が地に倒れています。ヨハネ福音書では、イエス神性証言として七つ出てきます「命のパン」六章四八節「世の光」八章十二節「羊の門」十章七節「良い羊飼い」十章十四節「復活であり、命」十一章二十五節「道であり真理であり命」十四章六節「まことのブドウの樹」十五章一節。この言葉は出エジプト記三章十四節「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神がモーセに啓示された言葉です。わたしたちの根底を確実に支えていてくださる方、わたしたちの存在の根拠が明らかにされています。

この事柄を実際的に理解することは容易です。それは十二節後半「命の光を持つ」です。「光を持つ」とは光源は御子イエスですが、わたし達は光の分子になって周囲を照らす働きをするということです。それは分かち難い関係です。人格的な輝きが拡大していくことです。十二章三六節「光の子になる」とはその意味です。七つの「わたしはある」はすべて未来の事ではなく、現在の状態を表わしていますが、その一つ十五章一節「わたしはまことのブドウの木、あなた方はその枝である」は一層明らかです。枝がぶどうの木の部分であるように、主を信じる者はイエスと同じ木につながって生かされているのです。

向 俊夫著「魚と人間の習性」という小冊子に「発光魚」のことが書いてあります。発光バクテリアが共生して、それが光るという他力発光と、自分で発光素を分泌して、その酸化によって発光する自力発光の二種類あります。他力発光の魚はヒイラギ、マツカサウオ、ホタルジャコ、トウジンなど、他力発光はハダカイワシ、ヨコエソ、ムネエソ、カラスザメ、深海魚にチョウチンアンコウがいます。興味深いのは発光の目的が四つ挙げられています。

同種類或いは雌雄がその所在を知るため(認識信号)

自分の進路を照らすため(照明)

餌食となるものを誘い寄せるため(誘導作戦)

敵を脅すため、敵の目をくらませる為(威嚇と防御)

これは光の持つ四つの効用と言えます。第一が認識記号で、光の存在を示すのです。キリストに結ばれた共同体です。キャンドル礼拝はその象徴的なものです。先ず親ローソクから点火します。互いに小さな光を灯して行きます。お互いが祈りと愛の交わりをもってキリストを証しするのです。第二は照明です。道の光、行く手を照らす灯火です。キリスト者が迷いと暗闇の中で迷うことなく未来を展望する神からの啓示、それは暗夜に光る灯台と同じです。第三は誘導作戦。これは餌食を捕獲するというのではなく、光の存在を知って人々が集まって来るという意味で、その働きを知ることが出来ます。輝かないところには人々は集まって来ないからです。そして第四は威嚇と防御。ローマ十三章十二節「闇の行いを脱ぎ捨てて光りの武具を身につけましょう」とあります。光は闇を吹き払います。光は殺菌効果があります。汚れを排除します。わたし達一人一人が発光魚になるのです。

十九世紀イギリスの画家ウイリアム・ホルマン・ハントの「世界の光」という絵画があります。ランプを手にしてドアをたたいているキリストを描いたものです。彼はその絵を描くに際して次のように述べています。《「ヨハネ黙示録に『わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って、その者と共に食事をし、かれもまた、わたしと共に食事をするであろう』(三章二十節)という句がある。時は夜であつたとは言われていないが、私は時を暗黒の時とすることによって、この聖句の意味するところを強く示したいと願った。キリストが屋内の罪人に光明をもたらすものであるから、その手に灯火を提げる必要があったわけである。扉には雑草が生え茂り、長い間その扉が開かれたことが開かったことを示し、背景には果樹園が描かれるであろう」》と。この絵はオックスフォードのキープル・カレッジのチャペルに掲げられています。「わたしは世の光である」と告げられるキリストに心を大きく開いて照らして頂きたい。

もうひとつのことを申し上げたい。それは主日礼拝最後の祝福に民数記六章二四¯二六節が読上げられます。

それは「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように」です。その中で「主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように」とあります。

わたし達は主を礼拝するとは、主の御顔を仰ぎ見るという礼拝です。モーセは顔覆いをして主を拝しましたが、もはやわたし達は主イエスによって覆いを取り除いて頂き、主の御姿を見つつ栄光へと引き上げられる者とされているのです。礼拝毎に、そのことを確認して生涯を歩みたいと願います              2012年9月2日

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破局からの救い

使徒言行録二七章三三―四四節

 この聖書個所は使徒パウロがエルサレムで逮捕され、カイサリアに移されローマのフェリクス総督の前で無実であること訴えて身の潔白を証言しましたが、フェリクスは二年間監禁状態に置かれていました。ローマ市民権を有するパウロは、皇帝に上訴することを申し出てローマ行きの機会を待っていました。折よく皇帝直属の百人隊長が乗ったイタリア行きの貨客船がきたので、数人の囚人と一緒に出航したのです。二七章一節からそのことが記されています。

航行の時期は、冬の季節風が吹きはじめる頃になり途中クレタ島によった時は航行は無理なので、春がくるまで待つようパウロは進言しましたが、船長は耳を貸さず遂に嵐に巻き込まれてしまったのです。幾日もの間太陽も星も見えず、積荷を捨て、ついに助かる望みが消えてしまいました。ところがそんな時、パウロは祈りの中で必ず皇帝に会うことが出来るという神からの確信を与えられ二五節「皆さん元気を出しなさい」告げました。それから十四日経ち、とある島に近づいているのを感じたのです。船が暗礁に乗り上げるのを避けるため碇を投げ込んで夜明けをまったのです。

前置きが長くなりましたが、パウロはこの時、十四日食事をしていなかったので三四節「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」と伝えました。この「髪の毛一本もなくなることはない」という言葉は主イエスがマタイ福音書十章二九節で言われた言葉と同じです。ここで直面している「恐れ」は嵐の中での生命の危険ではなく、迫害の嵐で、命を奪おうとする権力に対してでした。現代社会に生きる私たちにとっての恐れは色々あります。大きく四つの危機として考えられます。まず生命の危機、次に財産の危機、社会的危機、そして人格的な危機です。これらは相互に関係し合っています。健康が財産と思うもの人には、病気や老いることは、健康が失われる危機です。社会的な面では信頼関係が失われる危機です。様々な人間関係も破綻します。人格的な危機とは、自分が否定され、生きる力を失うことです。この船の乗客二七六名全員に生命の保障がされたのは、パウロの中に「必ずローマを見る」という確信から出てきた勇気であり確信だったのです。ここでパウロと共に、すべての人の命を救おうとされる神の動機に注目したいのです。神の意志は、すべての人々に向けられていたことを忘れてはならないでしょう。「あなた方は世の光」という時、それは決して限られた人達を指してはいないのです。以前ニュースで聞いた話ですが、マドリードでの飛行機事故で、危跡的に難を逃れた三組の日本人夫妻は、くじで座席の悪いところを引き当てたという。それが非常口の近くで外の景色が見えない座席だったそうです。神はある人を良いところに、ある人を悪いところに置かれるという人間的差別はなされないのです。創世記十八章で、ソドム・ゴモラの町からロトの家族八人が救出されましたが、そこで問題だったのは、神の御声に聞き従う決断が無い人々にあったのです。ヨナ物語も同じ事柄が示されます。ニネベの町に右左を弁えない十二万人の民について神は滅びることを惜しまれたのでした。ヨナはそのことを学んだのです。

松江刑務所時代のことを思い出しました。面接する前に受刑者の調書(家族、職歴、犯罪歴)を見ますが、いろいろあります。ある被受刑者が、先祖はゴマノハエだと言いました。これは「護摩の灰」のことです。弘法大師の護摩木を炊いて仏に祈った灰で有り難い物だと、にせ僧侶が、ただの灰を売って歩いた詐欺行為から来た言葉です。わたしは彼に「ゴマノハエ」で結構、聖書には「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」とあり、伝道者パウロは自分のことを「わたしはその罪人の中で最たるものです」(第一テモテ一章十五節口語訳「罪人のかしらなのである」)と言っていると話しました。「愛されている」、必要とされている」理解されている」この三つの約束が神に生かされている根拠となるのです。

昨今起きた中学生の自殺と苛め問題がニュースで大きく取り上げられています。これは昨日今日の問題ではなく、ここ二十年以上前から繰り返し起きている出来事です。

トルストイの「一本のネギ」という偶話がありますが、「世界はわたしの為にある」という人間の傲慢さ自己中心性が問われます。神はわたしたちに「生きよ」と呼びかけておられます。ユダヤの精神科医フランクルが著した「それでもイエスという」という本の中に、著者がアウシュビッツに送られることになった時のことでした。彼は精魂傾けて著作のメモを密かに自分のコートに縫いつけて持ってきたのです。ところがそのコートは没収されてしまったのです。彼はその時の喪失感は、無意味な人生だったというものでした。自分の服の代わりに、既にガス室送りになった別の収容者のぼろ服が与えられました。ところがそのポケットの中に引きちぎられたヘブライ語祈祷書の一頁を見出しました。それはユダヤ人にとって一番大事な祈り「シェマー・イスラエル」つまり「 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記六章四―五節)という言葉でした。この言葉をフランクルはこう理解するのです。「つまり艱難であれ、たとえ死であれ、どのようなことに直面しても、人生に対して『イエス』と答えよという神の教えであることを悟ったのでした。つまり「生きよ」と言われる神の言葉を聞き取ることです。囚人パウロを通して示された聖書のメッセージも同じです。                                2012.7.15

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  霊の思いは命と平和

ローマの信徒への手紙八章一―十一節

二〇一二年五月二七日ペンテコステ礼拝説教

1   ローマの信徒の手紙は大きく二つに区分されますが、魚に例えますと、八章までは骨の部分で九章から肉の部分ということが出来ます。実際に骨にも大小あり、肉は骨と絡み合っていますから、明確に二つに分けることは出来ませんが、しかしキリスト信仰の骨格を考察する場合、この箇所が一番よく理解できる箇所と言えます。聖書の読み方にも色々ありますが、聖書のある箇所を集中して読むということも大切です。そうして、骨格のしっかりしたキリスト者生活を送ることが出来ます。

2  さてきょうは、前半の魚の骨の部分で最後の八章ですが、ここでキリスト信仰と救いを言い表す、すばらしい明確な御言葉を知ることになります。それが一節「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」です。この「従って、今や、」は原文を忠実に訳すと「そういう訳で、今や、罪が無い」です。これは七章の終わりに続いているものです。七章で示されているのは、一言で申しますと、人間は誰も二重人格のような生き方をしていて悩み深い者で、それから逃れようとしても実現不可能であるという姿が描かれています。「二律背反」という言葉があります。二重人格というのはこのことです。出来るだけ内側の醜い自分は隠して、外側は美しく繕いたいのです。それを映し出すのは鏡です。心に鏡を持っているということです。

3   そこで、「鏡よ、鏡よ、わたしの姿を見せてくれ」と言うと、魔法の鏡は世界一美しいと言ってくれますが、神の手にある「律法」という鏡はその正反対なのです。その結果が二四節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」の告白です。この惨めな罪深い自分をそのどん底から救い上げて下さるお方がおられるというメッセージが、きょうの八章一節なのです。

4   「今や、キリスト・イエスに結ばれている者」は真に罪の支配から解放して新しい生き方が出来るというのです。ここで大変重要なのは、「キリストに結ばれる」ことです。それは「キリストにある」ことです。キリストの内に存在する、…の支配に生きる、…に属することです。ある英語訳では、イン ユニオン ウイズとなっています。これが起こらなければ、決して罪からの解放はないのです。キリストの生命を頂くと言い換えることが出来ます。

5   きょうはペンテコステ礼拝で、読まれる聖書箇所は使徒言行録二章ですが、復活の主が昇天される時に一章八節で聖霊を与えると約束されました。それは「聖霊が注がれると力を得る」というものでした。新しい生命を生まれさせる力です。ここで言われていることと全く同じです。九節「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」。ここでは「神の霊」と「キリストの霊」が同じ意味で使われています。そして五節では「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とあります。「神の霊に属する」と相対するものに、六節、七節「肉の思い」五節「肉に従って歩む者」、八節「肉の支配下」、十二節「肉に従って生きる」という言葉があります。従ってすべての人は肌の色も言語も時代と民族を越えてすべてこの二つに峻別されるというのが、聖書の主張です。その相違は「霊に属する者」と「肉に属する者」です。はっきり表現するなら、「キリストの生命に生きている」か「キリストの生命を持たないで死んでいるか」です。「生と死」の違いは「天と地」の違いに比較できません。「てんとう虫だまし」と「てんとう虫」(五千種「天道虫」と書く)とは違います。じゃがいもや茄子の葉を食べる害虫と貝殻虫やあぶら虫を食べる益虫です。欅(けやき)に宿る寄生植物と樹木の根に生える苔(こけ)類の共生植物も違います。

6 ペンテコステの日に起きた百二十人の主イエスにつながっていた人々は周囲の巡礼でエルサレムに集まって来ていた大集団とは全く違った群に変えられたのです。迫害や非難を恐れない命と平和をつくり出す「信仰共同体」として誕生したのです。祈りと賛美と礼拝がその中心となる交わり(コイノーニア)となったのです。それは見た目に同じようですが、全く違うのです。

7  この違いを二節「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。この二つの法則は徹底して相違します。これをわたしはしばしば用いる比喩で説きますと、重力と浮力という単純な実験です。水に石を投げ込むと必ず沈みます。誰が入れてもどんな大きさでもみな底に沈みます。ところがここに浮き袋を投げ込むと沈みません。これも明らかです。ところがもう一つの実験があります。それは石に浮き袋を括りつけると、石は沈みません。石を「罪と死の法則」に例えると浮き袋は「命をもたらす霊の法則」です。

8  この命をもたらす霊の法則を実現する為に、神は御子イエス・キリストをこの世にお送りになったのです。それが三節「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」ということです。十字架の出来事です。石に浮き袋を括りつけて沈まない命と平和な状態なることです。これがありませんと必ず罪と死に支配されます。つまり「キリスト・イエスに結ばれている者」となることです。これはキリストとわたしたちの関係ですが、同じ事柄を九節では「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」と言い「キリストの霊を持たない者」とあります。

9   その最大の自覚・キリスト者の自己認識は十五節「アッバ、父よ」と呼ぶことです。この言葉は主がゲッセマネで祈られたところに最初でいます。「アッバ」はアラム語、「父よ」(パテール)はギリシャ語で、「父よ、父よ」となります。これは礼拝用語として定着した神への呼び掛けです。小声でしか祈らないユダヤ教のしきたりであった当時、教会ではこれを肉親に語る親密な態度として礼拝で用いたのです。アルトハウスは「大声で、確信と喜ばしい勇気にみちて祈る言葉」と説いています。ここには平和で喜びがあり、心が通い合う家族が示されています。聖書では、「楽しい」六回「楽しむ」五七回ですが、「喜び」四一八回、「喜ぶ」六一四回出てきます。それは祈りの中で賜わる恵みです。

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さあ来て食事をしなさい

         2012.4.22   

                                             ヨハネ福音書21章1ー14節

     ヨハネ福音書は二十章で終わっていたと思われ、二一章は後日書き加えられた個所とされていますが、それが誰の筆によるものか諸説があり、たとえ同一人物ではないとしても、「あるがままの聖書」としてそこに示されている大切なメッセージを見落としてはなりません。「あるがままの聖書」というのは、聖書を文献としてバラバラに分解して大切な処だけを抜き出すような読み方をしないという意味です。それではあるがままの聖書となりません。ここで、一体何がここで示されるかを問うことです。第二十章のエルサレムにおける復活の主の顕現と違って、ここでは弟子たちが故郷ガリラヤに帰っている事に気付きます。これは共観福音書にある主イエスはガリラヤで会われるという予告がされていた事を思い起こしますが、その理由は、エルサレムに留まる事が出来ない悲しみと失意の内にある弟子たちを主が再度励ますということにあったというのです。マタイ福音書二八章一節では主イエスがガリラヤで弟子たちを待ち受けして、復活の事実を示して力付け、高い山に連れて行き(ヘルモン山かと思われる)、宣教の使命を与えて「再出発」を促すこととなるのです。しかし、ヨハネ福音書はエルサレムで既に復活の主と出会っていますから、失意の内にガリラヤに帰ったのではない筈です。むしろ積極的な意味があったと言うべきでしょう。

それは何か。弟子たちの復活の主の証人としての働きがエルサレムに限定しないで、郷里での日常生活の只中でなされるということです。更に言うならば、ペトロにとってはガリラヤの漁師であることを否定しないで、弟子としての働きに召されていることです。時代的な背景から考えると、原始キリスト教会では伝道者、教師は一般の仕事をしながらであったということになります。パウロもテント作りをしていました。その意味から理解すると、最初の「網を捨て」舟を陸に引き上げて主の召命に応えた時は「神第一の生活」という信仰の決断を促す事柄であり、ここでは生活の手段としての仕事であり、伝道者の在り方の多様性ということになりましょう。彼らは週の半ば、つまりウイーク・デーに漁をしていたのでしょう。七人の弟子たちですが、これまでの十二使徒の名前と記述が異なっています。ヤコブやヨハネの名はない。これと同様にわたし達もウイーク・デーで汗を流して働いている中、復活の主からの呼び掛けを聞き取りたいと思います。職業は神からの召命であるとマックスウェーバーは言いましたが、悪魔の産業と呼ばれるものもあり、押し並べてすべてとは申せませんが、キリスト者にとっての職業は神から与えられた働きという職業倫理は必要と思います。

ここで彼らは一晩中働きましたが、収獲がありませんでした。その様なことが起きるのです。年中豊漁である筈がないからです。徒労に終ることがあるのです。自分の力量の限界を知ることです。そのような時主イエスから「何か食べるものがあるか」と問われ「何もありません」と応えることになるのです。何もないという返事ほど情けないことはありません。惨めであり、限界を知ることになるでしょう。しかしこの経験は仕事にのめり込み、慢心に陥るわたし達のへの警告です。わたし達はいつも謙虚であるべきです。体力も力量も限界があります。詩篇百十九編七一節「苦しみに遭ったことは、わたしによい事です。これによってわたしはあなたの掟を学ぶことが出来ました」とある通りです。この時、岸辺に立つ人物つまり復活の主が六節「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれる筈だ」と呼び掛けました。専門家の漁師が自分の経験で判断するならば、岸に立つ主イエスの言葉は否定されたでしょう。しかし彼らは何のためらう様子もなく、言われた通りに従ったところ、夥しい魚が網にかかったのです。この時ペトロや弟子たちは三年前の出来事を思い出したかも知れません。大切なのは、主の言葉への応答です。これはキリスト者の基本的姿勢です。神の可能性にいつも立って行くのです。貧しさも富むことも人生様々ですが、思いわずらわず、高慢にならにならないで、日々を送ることが出来たなら何と幸いなことでしょう。

七節「ひとりの愛する弟子」がペトロに「主だ」と言うと彼は裸同然であったので、上着をまとって湖に飛び込んだというのです。尤も「裸であった」というのは、体に何も着けていなかつたのではなく腰布、つまり労働着だけだった訳で、ペテロは衣服・外出着を着たのです。水に濡れるのに、わざわざ着物などと常識なら考えますが、ここにもひとつの意味が隠されています。裸同然で主に会うのは、失礼だからではなく、創世記三章でアダムとその妻が神の前に裸で出られなかったのと同じで、自らの罪深さを裸と同一視して扱うのです。これらの経験もルカ福音書五章一―十一節の記事と似ています。そこではペテロは「わたしは罪深い者です。わたしから離れて下さい」と告白しました。ここでは何が語られているのでしょうか。それは復活の主の前に、自らの罪深さ、足らざる者、力の限界を徹底して示されることと、切り捨てられるのでも、見放されるのでもなく、生活の根底を支えていて必要なものを備え満たして下さるということです。わたし達の力量や、決心、努力を基礎としてではなく、主に向かって「何の獲物もない」という告白から出発することによるのです。

この時大きな魚が百五十三匹も取れたが、十一節「網は破れなかった」というのです。ヒエロニムスの説によれば、この数は全人類の象徴とされ、福音宣教の働きと救いが、総ての人々であると解釈されるのです。マルコ福音書十六章十五節「全世界に出て行って、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えよ」と言われたのと同じ出来事という解釈がされるのです。

今ひとつの学びは、後半九―十四節の場面です。岸について見ると、そこに主イエスが待ち受けて、朝食の準備が出来ていたという訳です。炭火がありパンもありました。明らかに主は一緒に会食する為に、弟子たちの帰りを待っていました。食事を一緒にするのは、いつの時代でも親しく交わる場所となります。食卓の上に並ぶご馳走の数でなく箴言十七章一節「ひとかたまりのパンで睦まじく食事をすることは、争いがあって食物の豊な家にまさるからです」。今日のわたし達から考えると、パンと魚の食事というメニューは、真に質素なものです。そこには主の準備した魚だけではなく、今弟子たちが主の言葉に応答して収穫した魚も添えられていました。働きの労苦を共に分け合う、うるわしい食卓です。

ここで大切なのは、食事の主人公が主イエスご自身であるということです。主が十二節「さあ、来て食べなさい」と招かれるのです。主が食事に招かれた記事は、福音書にはマルタ、マリヤの家庭(十二章二節)や、あるパリサイ派の家(ルカ七章三六節以下)、ザアカイの家(ルカ十九章)、収税人レビの家(マルコ二章十三節)などがありますが、主が食卓に招くのは、最後の晩餐の時と、このガリラヤ湖での食事だけです。特にヨハネ福音書では、最後の晩餐は十三章に簡単に記していて、それに取って代る記述が六章の五千人の給食の出来事になっています。ここで「わたしの肉を食べ、血を飲む者は永遠の命を得る」(五四節)という教えを述べています。つまりヨハネ福音書は会食記事を二回別な場面で示したのです。

イスラエル旅行をしますと、必ず観光ルートになっているのは、ガリラヤ湖畔の食堂で「ペトロの魚」を食べます。気の効いた人は日本から醤油を持参しますが、大味で特別美味しいのではないのですが、主イエスとの会食を思い出させます。椎名麟三というクリスチャン作家がいましたが、彼はイエスがむしゃむしゃ焼き魚を食べたというルカ福音書の記事からクリスチャンになったそうです。復活の主の証言となるところです。救世軍の山室軍平がロンドンに旅行した時、その家に掲げてあった言葉に心が捉えられて、日本持ち帰って紹介されたものですが、「キリストは家の首、すべての食事の見えざる賓客、すべての会話の静かな聞き手」です。わたし達は結婚の時お祝いを頂いたお礼にこの色紙を贈ったことを思い出しています。

大きな利得の道 

                       第一テモテ六章一―十二節  2011.10.9

1     パウロが弟子テモテに書き送った手紙ですが、終わりの部分で、結論的と思われる教えと勧めが書き加えられています。それが三節「主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者」のことです。ここで「信心」と訳されている言葉は「敬虔」(piety eusebeia)で本書に十回も出てきます(一章九節、二章二節、三章十六節、四章七、八節、六章三、五、六、十一節)。これは御言葉と生活が結び付いたもので、これが無いと異端信仰に陥ることになるのです。「主よ、主よ」と言う者が必ずしも御国に入ることが出来ないとマタイ福音書七章二一節で主が言われた通りです。 信心に基づかない人々はみ言葉を議論の対象するのです。四節「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています」と指摘されている通りです。更に五節「妬み、争い、中傷、邪推、絶え間無い言い争いが生じる」とあります。聖言による応答の生活がなされないで、議論に明け暮れする生活は、「真理に背を向け、信心を利得の道と考える」ということになります。使徒言行録十九章二三-三七節にエフェソの騒動として記されている通りです。

2     これは日本でも日常生活に浸透して「門前市」ができたり、夏祭り、秋祭りなどで屋台が出来、「信心を利得の道と考える」人が実に多いのではないでしょうか。わたしは出雲大社を身近に見てきました。 パウロは信心を利得と考えるなら、必要なものはすべて神が備えて下さるという信仰の故に、満ち足りていると受取る者には、六節「大きな利得の道である」と述べています。フィリピの信徒への手紙四章十一―十二節に「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。…ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている」と言っています。彼は貧しさの中で感謝して生きる道を知っていたのです。

3     パウロは、金銭の誘惑に付いても警告をしています。十節「金銭の欲は、すべての悪の根です」と言いました。金銭に対する欲望は古今東西を問わず人間の大きな罠であることは間違いありません。経済界や政治の世界でその犯罪行為という話題は尽きません。民主党の小沢一郎が政治資金・四億円授受問題で起訴され、今大きくニュースとなっています。田中角栄のロッキード事件の時と同じです。聖書の中には、この金銭に関する聖句が数多くあります。先ず主イエスはマタイ福音書六章二四節「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」と言われました。ルカ福音書十八章十八節以下には金持ちの議員が主の元に来て「永遠の命を得るにはどうしたらよいか」と尋ねたところ、財産を貧しい人々に与えて従ってきなさいと告げると、彼は悲しんで立ち去りました。その後二五節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われると、一体だれが神の国に入れるだろうかと反論しています。この直後にザアカイの入信という、これは対照的な記事があります。主の弟子で財布を預かる信頼された人物ユダは主を裏切りました。銀三十枚で彼は土地を買いましたが、その地面に落ちて死んだのです。

4     十五年程前、ブラジルで伝道している友人の招待で旅行をした時に、対岸が見えない程のアマゾン河流域に住んでいる原地人の生活を見ました。彼らは魚を捕って売り一ヵ月五ドルのお金で満足していました。その島に教会がありました。日本人が幸せあると必ずしも言えないと思いました。十一節でテモテは「神の人」と呼ばれていますが、パウロは「あなたはこれらのことを避けなさい」と言いました。神の人でも、戦いに慢心があってはならないのです。「避けなさい」とは「逃げなさい」とも訳されます。信仰生活は、ある意味で戦いの人生です。しかし、ある事柄については、問題から逃げること、避けることも心要です。私たちの意志も感情も弱いからです。

5     何を避け、何から逃げるか見極めなければなりません。避ける事を勧めた次に「追い求めなさい」とあります。熱心に励み、追求すべきものは、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」だと言います。私たちはキリストの十字架の出来事を「私のため」と信じ義とされ、救われました(ローマ三章二三―二六節)。神から義と認められた人は、人に対しては正義、神に対しては信心すなわち敬虔、そして三つの大きな徳である信仰・愛・忍耐(第一コリント十三章)、さらに柔和を求め続けるのです。この柔和は、他者の罪と過ちを共に負う力なのです。これらを追い求める人生が信仰の戦いであり、キリストが勝利されている道です。キリストの賜物を信頼し、キリストに従って前進しようとの励ましです。

6     「信仰の戦い」とは自分の罪との戦いであり、罪の力との戦いでもあります。人間は本質的に<肉>なる者であって<霊>ではありません。この肉に罪が宿り、人間を支配し、悪を犯させます。私たちが信仰生活を全うするためには、罪の力と戦い、勝利しなければなりません。何も持たずに世に生れ、世を去る時は何も持って行くことが出来ない私たち、は誘惑の多いこの世の戦いに勝利し、「大いなる利得」である「永遠の命」を持って行きたいと願います。

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『平和が心を支配するように』

               コロサイの手紙第3章12~17節  2011.10.2

まず12「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」という呼び掛けがありますが、これはかつてイスラエルの民に向けられていた言葉でした。「選ばれた、聖なる民」という表現が旧約聖書・申命記7章6節「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。すべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」とありますが、これはイスラエルの民を指しています。ところが七節の選ばれた理由を取り違えて、選びの基準を「律法の遵守」に置いたのです。 イスラエルは律法を遵守しているので選ばれた聖なる民だとしてそれ以外の異邦人を軽蔑していました。しかし神の約束は違っていて、信仰の父と呼ばれるアブラハムに対して創世記12章2節の「あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となる」と告げられたのです。そしてアブラハムの子孫として神がこの世に遣わされた御子イエスこそ祝福の源ですべて御子を信じる者は神の選ばれた民、聖なる、愛された祝福の民であるとされたのです。 先程申しました申命記七章六節「すべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」は、わたしが先週旧約聖書一日一章の通読箇所だったのです。先週礼拝奉仕を頂いた藤井清邦牧師の長崎古町教会ホームページを開いて見ましたら、本年の聖句として掲げられて驚きました。しかし留意しなければならないのは、これは選ばれて宝の民にされたので、始めから宝石ではないのです。その辺に転がっているただの汚れた石ころでした。人間的評価からすれば、10の罪の目録を持つ者それは5節に五つ、8節にも五つ出ています。ローマ1章には二一の罪の目録が出ています。そのような私たちをキリストにある諸々の祝福を約束し賦与して下さるのです。(1) 「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。身につけるには脱ぎ捨てねばなりません。それが9~10節「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」ことです。これはキリストの品性を身に着けることです。 (2) 互いに忍び合い、赦し合いなさい。 (3)主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 (4)愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 (5)キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。(6)いつも感謝していなさい。 (7) キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。 (8)互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、神をほめたたえなさい。

上記の中で二つを取り上げます。一つは「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」(口語訳)とあります。愛の定義は色々ありますが、その一つに「相手の心を受け入れる」ことです。キリストが受け入れて下さったように私たちも互いに受け入れ合うのです。日本語の漢字は受ける」の中心に「心」の文字があります。よく似た言葉「思いやり」は一方的に陥りますが、それは有難迷惑になります。長いホークが食卓に置かれた「狼と羊の晩餐会」の譬があります。羊はその長いホークを使って前の皿のご馳走を相手の口に運び楽しく仲良く食事をしたが、一方狼は相手の皿からご馳走を奪い自分の口に入れようとするが中々大変、奪い合いの大混乱という訳です。

今一つが「平和の絆で結ばれる」ことです。ここで示されるのは預言者イザヤのメシア預言と言われるところです。9章5節です。英語聖書では A child is born
to us! A son is given to us! And he will be our ruler. He will be called,
“Wonderful Counselor,” “Mighty God,” “Eternal Father,”  “Prince of Peace.”

この「驚くべきカンセラー」はヘンデルのメサイアで最初に歌う箇所です。カウンセラーの基本は、「相手について知ろうとして聞くのでなく、相手と共に一体化して聴く」ことだと言われます。「聞く」と「聴く」は違うのです。前者は「門で話していることを家の中で聞く」、後者は「徳のある聞き方」の相違と言います。極めて積極的に耳を傾けて聴く姿勢です。ユダヤ人で精神科医のビクトル・フランクル博士が真夜中、若い女性から電話があり、自殺したいという。しかも死ぬ前に自殺に至る経緯を話したいという電話でした。フランクルは自殺を思い留まらせようとして、窓が白み始めるまで彼女の話を聴きつづけました。ついに自殺を思い留まり、その後面会に来ましたが、そこでこの女性は『先生の説得で思い留まったのではありません。見ず知らずのわたしの話に、一生懸命相手になってくれたからです。』と語ったそうです。名カウンセラーでした。「愛と平和」(安心・安全)は人を癒す力を持っているのです。平和のプリンス、ワンダフル・カウンセラーをわが心に迎え入れて、身心癒されて日々を送りたいものです。 先日西福山病院に診察を受けに行きましたら、壁に素晴しい言葉が書いてありました。「最高の診療は医師と患者の限りない信頼と深い愛情の上に築かれる」というのです。これは上からの目線で「お前を癒してやるぞ」というのではなく、愛情と安心との共有関係が在って本当の癒しがなされるのではないかと思いました。愛のないところには平安はなく、平安のある処に真実の愛が通うのです。

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   まことの礼拝とは   

                  ヨハネ福音書四章二一―二六節 2012.2、5

  四章十五節までに主イエスとサマリヤの婦人と「永遠のいのちの水」についての、問答が記されています。この文脈から、真実の礼拝に就いての質問がどうして出てきたかを先ず考えておきたいと思います。そのきっかけとなるのは、主イエスの十六節あなたの夫を呼んで来なさい」という質問からです。女の夫はいませんという答に対して、十八節あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と指摘されました。「五人の夫がいた」というのは何と驚くべきことでしょう。普通「ふしだらな女」と呼ばれます。人は誰でも生涯の伴侶となるべき相手と出会って「夫と妻」との麗しい人間関係を持つことは神の祝福ですが、サマリヤの婦人にとって大変な人生を送っている事になります。原因が一方的に女性の側にあるという読み込みがなされますが、男性側からの差別と抑圧の犠牲か、結婚しなければ生きられないユダヤ・サマリヤにおける律法社会の問題というものがあるかも知れません。

  旧約聖書を読んでみますと、神とイスラエルとの関係を「夫と妻」との関係として表わし、異教の神々を礼拝する事を姦淫の罪という表現で厳しく問い正しています。預言者ホセアは、妻ゴメルとの破綻を通して神の愛に対する裏切りを体験します。そしてそれでも尚、愛して回復する神の慈愛から姦淫の罪を犯した妻を贖い帰すのでした。ここに出てくるサマリヤ地方の前身は北イスラエルでした。紀元前八世紀終り七七六年アッスリヤに滅ぼされました。占領政策として、多くの指導者や上流階級の人々が捕らえられアッスリヤに連れて行かれました。その後アッスリヤから来た兵士たちがイスラエルの女性と結婚し定住しました。その人々をサマリヤ人と呼んだのです。今日では国際結婚と呼ぶのですが、ユダヤ教徒たちは、彼らを純粋なユダヤ教徒と見なさず、他の神々を礼拝する姦淫の民と見たのです。これはその後宗教的対立と闘争の原因になっていました。同じ問題は南ユダの国にもありました。バビロンに滅ぼされた時、多くの指導者たちが捕囚の民として連れて行かれました。五十年後ペルシャの王キュロスが解放令を出して再び帰国し第二エルサレム神殿が二十年後完成しましたが、そこに八つの異民族から来た人々と結婚していることが判ったのです。彼はそこで問題を取上げ、異民族の妻子と絶縁するようにという勧めがエズラ記十章に出てきます。

  サマリヤの婦人に対して主イエスが「五人の夫があった」と指摘されたのは、列王記下十七章二四―四一節にあるアッシリヤ占領政策として、五つの町から人々を連れて来た事由を指しているという事、つまり五人の夫とは五つの国々の偶像礼拝を指しているとも言われるのです。

  ここで主イエスは、肉体に覚える水の渇きと心の底から慕い求める命の渇きとを重ね合せて、神への礼拝によって命の渇きは癒されることを示そうとされたのです。二一節この山(ゲリジム)でもエルサレムでもないところで、礼拝をする時が来る」と告げたのは、そのことを示唆したものです。そして二三節霊と真理もって父を礼拝するときが来る」と言い、更に「今がその時である」と付け加えました。それは明らかに主イエスとの出会いによってそれが実現したという意味になります。

  二四節「神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない」という場合、「霊と真理」はイエス・キリストに宿るのです。イエス・キリストは「霊と真理」そのものです。その働きはイエスを外にしてはありません。「」とは「神は霊である」とある通り、唯一なる神=聖霊であり、諸霊信仰の中の、一つの霊ではないのです。婦人との会話にある、渇かない命の水、イエスから与えられる水です。「真理」とは「神の真理」を指しています。十四章六節私は道であり、真理であり、命である」の真理です。口語訳は「霊とまこと」となっていましたが、「まこと」では、真実、誠実という意味に理解されます。人間の誠実さという徳性の一つではないのです。それでは、わたしたちが真面目に礼拝を守ろうという態度になってしまいます。そうではなく「霊と真理」であり、いずれも神に属するものです。パウロはローマの信徒への手紙章で霊の働きを取上げ、霊によってわたしたちが、十五節アッパ・父よ」と呼ぶ事が出来ると述べています。

  ヨハネ福音書三章五節だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。バプテスのヨハネは主イエスを一章三三節霊によってバプテスマをさずける人」と紹介しています。わたしたちは、イエスの聖名によるバプテスマによって、霊による新生経験を与えられました。そして礼拝の民とされました。礼拝は霊によって新しくされた者が呼び集められる神の霊の働くところです。そこに真実の礼拝が生まれます。そして同時に霊的礼拝は、神の真理の働きを必要とします。何故なら人間の判断を超える出来事だからです。つまり神の真理が見失われると、神礼拝が人間の無知とおごりによって神秘主義や恍惚状態(エクスタシー)に陥るからです。神の霊の働きは激しい焔のように降りますが、ある場合には細い静かなささやきとして働くのであり、神の真理は、わたしたちの理性や感情、意志を健全に働かせるものです。わたしたちの理性は健全に働き、感情は麗しいものとなり、意志は豊かになります。十四章六節わたしは真理である」と言われ、また一章十六節恵みと真理が満ちている」とも告げられる主イエス・キリストによって、神の言葉が開示され、理解が深められ鋭い判断力が与えられ、信仰の全容が明らかにされるのです。

  更にわたし達の目を開かせる事柄は、この様な礼拝を二三節父はこのように礼拝する者を求めておられる」ということです。「霊と真理をもって礼拝しなければならない二四節しなければならない」とあります。「礼拝厳守」という言葉がかつてキリスト教会にありましたが、今は死語になっています。それは律法主義の謗りを受けるからでしょうか。ここで「しなければならない」といわれる理由が示されねばなりません。私たちは食事をしてもしなくても、どちらでもよいなどとは言いません。食欲が無ければ、健康ではないので治療を要します。主イエスが「命の水」といわれる理由も、これと同じです。人間は本来神を礼拝するように創造されたのです。

  聖書・創世記で天地創造に際し「神はご自分にかたどって人を創造された」のですが、その神にかたどられたもの、つまり神の似像が、罪を犯すことによって失われていました。然し創造主なる神はこの失われた人間が、今一度神の言に応答する愛の関係回復を期待しておられたという事です。これは今や、主イエスにある霊と真理によって実現するのです。キリス者にとって日曜日の礼拝からすべての生活がスタートします。礼拝とはこの週になさなければならない困難があればそれを神のみ前に差し出して考え喜ばしい計画があればそれを聖書に照らして吟味し祈りにおいて予測のつかない事に供える時ですまた自分とばかりでなく隣に座っている兄弟の課題を共有するときです。主イエスがなそうとしておられる御業に心砕かれて応従するのです⑥何よりも人生の終り、死後の日々を先取りさせてくれる時です。後の日々における礼拝は安息=休息だとすれば、毎週の礼拝が小休止となるのです。

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